ピアノに対する抵抗
私は小さな頃からピアノを習っていました。
家には大きなグランドピアノがあり、
姉と2人で代わりばんこに弾いたり、
連弾をしていたのを覚えています。
それでも私はピアノが好きではありませんでした。
それは大人になった今でもあまり変わりませんでした。
楽譜を見るのはそんなに抵抗はないのですが、ピアノを弾くとなると話が違くなってしまうのてす。
私はとある合唱団に入ることになりました。
その合唱の練習のため、ピアノをひいてメロディを確認したいのですが、ピアノの前に座る事ができないのです。
なんだか嫌な気持ちになります。
なぜ、こんなにも抵抗がでるのでしょうか、、、
そんな日が数ヶ月続きました。
抵抗についてみつめる機会があり、
良い機会だと思いこの抵抗について考えました。
出てきた映像は"お母さんにもっと褒められたかった、隣に座って聞いて欲しかった"と悲しんでいる私でした。
私の弾いているピアノは下手くそで、
私には価値がない。。。
お母さんはきっと私の練習の音にウンザリしている。。。
興味を示してくれない母の顔が私の自己否定感を刺激してきました。
大人数の前でピアノを弾くのが怖くなり発表会で失敗して傷ついた事もあった。
そんか自分に自信が持てなくなっていったのです。
沢山の気持ちが止めどなく溢れ出てきました。
しかし、それと同時に両親なりに対応してくれていたことにも気がつきました。
ピアノを習わせるために大きなグランドピアノを買ってくれ、
ピアノの調律師を読んでメンテナンスも欠かさずやってくれました。
ピアノの日はケーキを買って母は先生の話を真剣に聞いたりとおもてなしをしていた。
発表会の時はいつも素敵な衣装を買ってくれました。
きっと私は無意識に母の期待にも気づいていたのかもしれない。
母は母なりに気を使ってプレッシャーをかけまいとフラットに接してくれていたのかもしれない。
きっと私が母に求めていたことと、
母が私を思ってやってくれていた事が、
ズレていただけ。
そして私の中に罪悪感もあることに気がつい
た。
上手に弾けないことが申し訳なくて、
あまり好きにもなれなくて、
どんどん練習をしなくなっていって、
最後にはピアノを辞める事を決めました。
母はどんな思いをしていたのでしょうか?
あの頃の私はそこまで考えていなかった。
早くこの苦しみから逃れる事しか頭になかった。
いま、距離を置き改めて過去を見つめる事ができた。
もう一度ゆっくりピアノの前に座り鍵盤を弾いてみる。
おぼつかない手の動きだけれど感覚が覚えていた。
不思議とあの頃のおぼろげな楽しかった気持ちも蘇ってきた。
自己否定感と罪悪感をしっかり感じて認めてあげたら楽になった。
あの時よりもピアノとの距離感が近くなった。
嫌悪感も減っていた。
このタイミングで合唱を始める事の意義も見出せたように感じます。
合唱に参加する事ができて良かった。
これからも今の私には不要な観念や思い込み、苦しみを少しずつ解放して行きたいと思います。
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