新嘗祭で癒された精霊の魂
先日、11月23日に新嘗祭に参加してきました。
前日の夜遅くまで人と話していて寝るのが遅くなってしまったのに、不思議と当日朝早くにスッキリと目が覚めました。
そして直感的に”新嘗祭に行かないと”と感じ、すぐに調べ始めました。
※新嘗祭(にいなめさい、にいなめのまつり、しんじょうさい)は、宮中祭祀のひとつ。大祭。また、祝祭日の一つ。 新嘗祭は、天皇がその年に収穫された新穀などを天神地祇(てんじんちぎ)に供えて感謝の奉告を行い、これらの供え物を神からの賜りものとして自らも食する儀式である[1]。毎年11月23日に宮中三殿の近くにある神嘉殿にて執り行われる[2]。同日には全国の神社でも行われる。 なお、天皇が即位の礼の後に初めて行う新嘗祭を、特に大嘗祭(だいじょうさい、おおにえまつり、おおなめまつり)という。(wikipediaより)
新嘗祭とは勤労感謝の祝日と同じ日に行われており昔は五穀豊穣を祝い感謝する日として新嘗祭を行っていました。 今では祝日の名前が”勤労感謝の日”になっている為あまり馴染みのないものかも知れませんが多くの神社では三代祭りの1つとして特別な意味合いのあるものとなっています。
まずは一宮神社を調べたら、すぐに家を出れば間に合う時間帯。
善は急げ、すぐに支度をして出発です。
祝日のため渋滞も予想されます。
それに捕まってしまえば間に合わない時間です。
しかし思いのほか渋滞はなくそのまますんなりと目的地に着きました。
休日でなくてもかなり渋滞する道を通るので、問題なく着いたことは今のご時世では少し不思議でした。
さて、少しして新嘗祭が厳かに始まりました。
その場面を見ていると何故だか不思議と感謝や嬉しさが止めどなく込み上げてくるのです。
精霊の魂が反応しているのでしょうか、涙もどんどん溢れてきます。
前で恥ずかしい。。と思いながらも止まらない。
理解されなかった苦しみや悲しみ、報われない気持ちなどが奥底に溜まっていたのでしょう。
それらを解放するかのように泣き、そんな私を後目に祭りがどんどんと進行していきます。
弥生時代から始まったと言われている新嘗祭、縄文時代にはなかったお祭り。
初めは五穀豊穣という人間のエゴから始まった祭りかと思っていましたが、そうでは無さそうです。 こ
の時代にも精霊を信じ、農業の神様と繋がり崇め敬い自然と共に共存していこうという人間の自然に対する敬意の表れだったのだと感じ取れました。
農業というスタイルに変わっても精霊や自然を敬い1年に1度お祭りを通して感謝を伝えていく。
この儀式で精霊たちも人間たちと共存し力を貸していこうという流れになることは理解できる、そんなパワフルな儀式でした。
私の中にいる精霊もとても満たされるものがありました。
今まで人間たちのエゴ的な行いを見ては心が荒んで諦めが入ってきていたのでしょう。
しかし、新嘗祭を通じて”人間ももしかしたらやればできるのかもしれない”と希望が持てたのでした。
自分の中の精霊の部分も満たされこのような儀式が行われていることが知れ自己肯定感にも繋がりました。
そして精霊として常にどこか人間に対して理解し難い重たさや苦しみ、悲しみなどがあることも知れました。
これは結構大きな課題かも知れません。
ゆっくりと丁寧にこの課題にも向き合っていこうと思いました。
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